「急な話で、お前も困惑している事だろう。私も訳が分からんが、これは王家からの申し出だ。断る事はできん。お前も聞き分けてくれるな? ︎︎これは名誉な事なんだ」
言葉とは裏腹に、父の顔色は芳しくない。行き遅れの娘が王太子妃になんて、社交界では恰好のネタだろう。それを父も分かっているのだ。伯爵家と王家では身分も釣り合わない。しかも王太子が御相手なのだから、末は国母となる事を求められる。父の昇格も有り得た。それをよく思わない諸侯もいるはず。
現に宰相であられるハイウェング公爵には、御歳11歳のご令嬢、ユシアン様がいらっしゃる。このユシアン様が、王太子妃の最有力候補だったのだから、公爵にとって、降って湧いた私の存在は面白くないだろう。
私の生家であるフェリット伯爵家は、王都カイザークから東に位置する山岳地帯を領土としている。平坦な土地が少ないために畑作には向かないけれど、特産品である紅茶や、林業で財を成し、武官としても王家に尽くしてきた。父は騎士団の分隊長だ。領地経営も順調で、父の誠実なひととなりも評判が良い。
そんな伯爵家の娘が王太子妃になろうものなら、宰相の地位も危ういと感じるかもしれなかった。実際、宰相の評判は良くない。国王陛下のお言葉にも否定的で、政権を握ろうと暗躍していると、まことしやかに噂されていた。
宰相は先代から世襲で受け継いだ地位なのだから、それも頷けた。俗に言う親の七光りだ。
5代目である現宰相オードネン閣下は、先代が築いた富も食い潰しているという。それはユシアン様も例外では無く、いつも煌びやかなドレスを纏っていらっしゃるらしい。まだ11歳のため社交界にはお出でにならないから、私はお目にかかった事が無いのでなんとも言えないけれど。
そんな宰相を敵に回すかもしれない今回の求婚。アイフェルト殿下は聡明なお方だというから、その辺りもご存知のはずなのに。
困り顔で思案していると、父からまた突飛な言葉が飛び出した。
「そこでなリージュ。明日殿下がお前に会いたいそうだ。夜会前に仲を深めたいと。迎えを寄越してくださるそうだから、準備をしておいてほしい。ネフィには伝えているから、お前もそのつもりで」
それにはさすがに私も声を荒らげた。
「そんな……! 明日だなんて、しかも王宮にでしょう? ドレスも準備が間に合いません!」
けれど父は苦笑いを浮かべ、言いづらそうに口を開いた。
「それも、殿下が準備してくださっている。夜会用とは別にドレスを贈られているんだ」
その言葉に、私は開いた口が塞がらない。どう考えても伯爵家には過ぎた待遇だ。本当に何をお考えなのか。これでは諸侯に贔屓と取られても文句は言えない。それとも、私にそれだけの価値を見出してくださってるのかしら。自分で言うのもなんだけれど、冴えない田舎娘なのに。
話はそれで終わり、執務室を辞した私はよろめきながら私室に戻る。これからの生活に不安しかなかい。何故こうなったと考えながら私室に辿り着けば、そこにはネフィが待ち構えていた。長い栗色の髪をお団子にして、お仕着せのメイド服に身を包んでいる。勝気な瞳は。戦闘に赴くようにギラついていた。その隣にも、数名のメイドが控えている。
ネフィは一歩進みでると、丁寧に礼をして残酷な現実を突きつけてきた。
「リージュ様。お話はお聞きになりましたね。これより、明日に備え身を清めていただきます。そこらの姫君に舐められないよう徹底的に磨き上げますから、ご覚悟を」
そう言うと周りのメイド達に目配せして、手をわきわきとさせながらにじり寄ってくる。私は逃げ出そうとしたけれど、すかさず捕まり、浴室へと連れ込まれてしまった。
「リージュ様、論点がずれております」 とんちきな発言をした私に、ネフィは心底呆れた声で指摘した。それに反して、殿下は上機嫌だ。「え、じゃあ夜ならいいの? やった! そういえば、まだ寝衣も見た事なかったよね。どんな感じなんだろう……それを脱がすのも楽しみだな」 垣間見た弱々しさはどこへやら。艶を増していく紫の瞳は、確実に私を獲物として見ている。いつもとはまた違う、獰猛とも言える視線に呑まれ混乱する私に、騎士団長が助け舟を出してくれた。「殿下、今はそういった事はご遠慮ください。私をお呼びになったのは、妃殿下のお力について、でございますね?」 さっきまでの屍のような目とは一転、騎士団長の表情は、きりりと引き締まっている。既に私を『妃殿下』と称する点は気になるけれど、それを言い始じめたらまた話しが止まってしまう。不承不承ながらも、居住まいを正した殿下に胸を撫でおろし、騎士団長へと向き直る。「はい。此度の戦では、主にオードネンの動きに重点を置いていました。けれど、今後はアックティカを覗き見る手段がありません。国王や、その他の重鎮たちを絵姿で確認はしましたが、追う事は叶いませんでした。そこで、味方陣営の情報収集に観点を移してはと思ったのです。陛下にもご相談いたしましたが、賛同していただき、こうして騎士団長をお呼びする運びとなりました」 経緯を掻い摘んで伝えると、殿下も援護してくださる。「うん、僕も賛成。リージュ誘拐の時から、内通者の存在が懸念されている。オードネンも、こちらの情報が洩れていると仄めかしていたし。まずは騎士団を束ねる君、それから軍団長、師団長と広げていく。団長であれば数もそう多くはないし、リージュの負担も軽く済むはずだ。慣れてきたらもっと目を広げる」 じっと耳を傾ける騎士団長は、一つの疑問を呈した。「しかし、多くはないと言っても十名以上はいます。それら全てを網羅されると? 恐れ入りますが、名も爵位も様々です。私も完全に把握しているのは軍団長まで。それ以下の者は、各団長に一任している状態です。師団長は更に多く、兵卒ともなれば、かなりの功績を上げなけれ
殿下の落ち込み具合は、まるで垂れている耳と尻尾が見えるかと思うほどだった。私は沈む殿下の手を取り、満開の百合の花を撫でると、穏やかな声音を意識しながら語りかける。「殿下はよく務めておいでです。何事も、最初から上手くはいきません。今は学ぶ時なのです。周りをご覧になって? ︎︎師となる方々に恵まれているではないですか。辛い時は、どうぞ私にぶつけてください。私は、そのためにいるのですから」 ゆっくりと顔を上げる殿下に、微笑み頷いた。私達は支え合い、高め合う双樹。精霊王もそれを望んだのではないかしら。 人と精霊という、一時期は相反した存在が手を取り合う。私は精霊の血というものを感じる事はできないけれど、それが殿下の傍に在るために必要だと言うのであれば、信じたい。長い年月を繋いできた契約は、きっと当事者にとっては意味の無いものだ。 きっかけがどうであれ、互いのために存在する事が重要で、契約はそれに付随するものでしかない。少なくとも、私はそう思う。 それもちゃんと言葉にして、殿下に伝える。「……うん、そうだね。リージュがいるから僕は強くなれる。戦場も、本当は怖かった。さっきまで話していた従騎士が、呆気なく死んでいくんだ。僕も何人も殺した。オードネンも、民兵も……その感触がまだ残ってる。でも、リージュを危険に晒したオードネンが許せなくて、それで……」 私の腰に抱きつき、肩を震わせる殿下は小さく感じる。戦場は、私には想像もつかない、人と人が殺し合う場所。そこに訓練を受けているとはいっても、たった十三歳で送り込まれたのだ。 どれほど怖かっただろう。 どれほど恐ろしかっただろう。 殿下の背中を撫でながら、相槌を打つくらいしかできなのが歯痒い。 そんな私達を見て、騎士団長は控えめに口を開く。「殿下、良きお方と出会われましたね。王妃様も気丈なお方ですが、妃殿下は肝が据わっておいでだ。遠見で、戦場の様子もご覧になられていたはず。軍議の場だけとはいえ、殺伐とした空気は感じておられたのでは?」 問いかける騎士団長に、私は頷いた。戦場自体は見ていないけれど、騎士達の鎧は血に
雪が積もる庭を眺めながら、私は暖かいサロンで寛いでいた。今日は騎士団長ハイゼ・ホーグ様との面会の日だ。殿下がお帰りなって三日。陛下は迅速に対応してくださり、通達を受けた騎士団長もお忙しい中、こうしてお時間をいただいている。皆様もまだ警戒を解いていないという事だろう。これを鑑《かんが》みても、お仕事が詰まってると予想される。離宮の番兵達も、どこか落ち着かない様子だ。 彼らも騎士の一員。離宮の警護を仰せつかっているから戦には出なかったけれど、戦況が変われば迷いなく死地へ向かうだろう。彼らも、私の力を制御する訓練に付き合ってくれた。仕事とはいえ、眉唾物の魔法の特訓だなんて呆れていたのかもしれない。それでも、私の力を実感するにつれ、真剣味を増していた。 王家の力は、皆知っている。だけれど、それは御伽噺としてだ。魔法が絶えて千年の間に、世情も落ち着き、使われなくなった力は忘れられていった。それでも、お年寄りの口伝で語り継がれる事もある。そうして思うのだ。「王族は特別な血を持っている。だから不思議な力もあるに違いない」 そうんな風に。 でも騎士になると、その辺りの感覚が違ってくるらしい。やはり、王家の近くを警護するのが主な任務だからか、私の力もすぐに理解してくれた。殿下や陛下の力の事も知っていて、心を見透かされても照れるだけ。お二人のお眼鏡にかなった方々だから、宰相のような人もいなかった。末端になると、目が届かずに買収される方もいると聞いたけれど。 騎士団長も、快く今日の面談に応じてくれた。そのお気持ちに応えるべく、できる限りのおもてなしを用意している。約束の時間が近づき、ネフィと最終確認をしていると、扉がノックされた。「王太子妃殿下、お初にお目にかかります。お招きにより馳せ参じました、騎士団長ハイゼ・ホーグでございます……何故、殿下がおいでなのですか?」 騎士の礼を執り、顔を上げると怪訝な顔をされる騎士団長。それもそのはず、私の隣には殿下が陣取っていたのだから。 ついさっき、騎士団長が訪れるほんの少し前に殿下は現れた。それからはずっと私の隣で腰を抱き、今に至る。騎士団長に問われた殿下は鼻で笑う。
殿下が退出されると、途端に寂しさが顔を出す。ちゃんと約束もしたし、戦に行く事もない。それでも、まだ不安定な情勢下では、またいつ戦が始まるか分からなかった。 アックティカとの戦いは、一旦の目途がついている。しかしそれは、今回の出陣で大将首だった宰相、この呼び方はもう相応しくないかしら……元公爵オードネンを打ち取ったからであり、決着がついた訳ではない。オードネンがいなくなった今、私の遠見は当てにならなかった。 私が知り得たのは、あくまでオードネンの周囲だけ。やり取りがあった人物も、絵姿で確認してみたけれど追う事はできていない。つまり、直接会わなければ、遠見の対象にはならないという事だ。 今度また戦が始まれば、私は役に立てないだろう。私に何ができるのか。そう考えて思い付いたのが、味方陣営との連絡役だ。これは今回の戦でもしていた事ではある。 殿下もいらっしゃる戦場の情報収集なら即時反映できるから、私は殿下の目を通して戦況を陛下に伝えていた。それに加えて、騎士達とも面通しすれば、見える範囲が広がり情報量も増える。 もしかしたら内通者を見つける事だって可能かもしれない。これは一度、陛下にご相談してみる価値があるだろう。 そのためには騎士団の方々とお会いしなくては。事前に準備しておけば、いざという時に慌てなくて済む。それに、騎士団には大勢の方々が所属していらっしゃるから、面談にも時間がかかるだろうし。 そうと決まればじっとはしていられない。今は軍議の最中だから、使いを出してお時間をいただかねば。すぐに手紙を認め、ネフィへ指示を出すと、扉の外で見張りをしている騎士に伝えてくれた。遠ざかっていく小走りの足音を聞きながら、私は図書室へと向かう。 図書室には年代別に、王城へ従事している者の名鑑が収められている。殿下が私のためにと準備してくださった物だ。書物は手書きだから、書き写すだけでも膨大な仕事量になる。その上、装丁は鞣した革、紙も羊皮紙でとても高価だ。そんな写本が、私のためだけに集められた図書室は種類も
和やかな空気の中、ネフィがお茶を用意してくれて、殿下と二人ソファに座る。その間も殿下の腕は腰に回されていて、一年という時間を埋めるようにぴったりとくっついていた。 待ち侘びていた人がすぐ傍にいる。それがこんなにも幸せな事だなんて、私は知らなかった。お父様やお母様、ネフィや他のメイド達。みんな大事な人ではあるけれど、やっぱり殿下は特別だ。 でも、ささやかな時間はそう長くない。満ち足りた空間を壊したのは、控えめに扉をノックする音。殿下が返事をすると、野太い声が返ってきた。「殿下、ご歓談中に申し訳ございません。間もなく軍議のお時間です。ご準備を」 その声には少しの焦りが見えた。たぶん、ぎりぎりまで待ってくれていたのだろう。殿下も素直に従い立ち上がると、私の左手を取って口づける。恒例になりつつあるこの仕草は、嬉しい反面、寂しさも連れくるのだった。 ――いつでも、傍に。 そんな想いが込められた口づけだから。でも今日からは違う。「それじゃ、リージュ。夜には帰るから、待ってて。一緒に夕食を食べよう。料理長も張り切っていたし、きっと御馳走だよ。ずっと味気ない野戦食だったから、すっごく楽しみ」 ふわりと微笑む殿下につられて、私も頬が緩む。「はい、お待ちしております。ずっと一人だったから、嬉しいです。殿下のお好きなトラウトのムニエルをメインにお願いしましょう。料理長がいつも言っていたのです。ムニエルの日は、とてもご機嫌だったって」 一年前は、夕食を共にする時間も少なかった。軍議や軍の編成、その他の細々とした雑務に追われ、顔を合わせない日もあったほど。私も及ばずながら遠見で視た会話や風景から、あちらの戦力を図り騎士団長へ伝えていた。 その中で、まだ知らない一面を料理長はあれこれと教えてくれる。この離宮の料理長は話し方も陽気な方で、敬意を払いつつも気安げな口調は親しみやすかった。なんでも以前は王宮の副料理長だったそうで、王家の方々の食の好みを把握し、采配するのは責任重大だという。時には毒見役が亡くなられる事もあり、その調査への協力も仕事のひとつだと言っていた。その結果、部下が捕えられた
我慢。 それは以前もよく仰っていた言葉。口付けを重ねる度、殿下は自分を抑えるようにそう繰り返していた。でも一年前はまだ姿も幼くて、ませた方だなと思っていたけれど。 今、私は蛇に睨まれた蛙のように動けずにいる。背も伸びて、艶を増した瞳は遠見では気付けなかった。いつも机に向かった状態で、視えるの上半身だけ。こんなに身長が伸びているとは思わなかったし、お顔はそれほど変わっていない。それに、目の前にいるからだろうか。息づかいや瞳に映る自分の姿に、言いようのない恐怖心が湧き上がる。「ダメだよリージュ。そんな顔したら、余計に食べたくなっちゃうでしょ? ︎︎それとも誘ってるの? ︎︎悪い子にはお仕置きが必要かな?」 ずいと顔を寄せる殿下を振りほどこうとするも、難なく躱されてしまう。殿下は優しく、でも強引に腰を抱くと、ドレスの襟を引っ張り喉元に唇を寄せた。ぞくりとした感覚が背中を走り、小さな痛みが刻まれる。 殿下はそれを満足そうに確かめると、鏡に写して私に見せた。そこには赤い花のような痣が浮きでている。長い指でなぞりながら、うっそりと呟いた。「ほら、見える? ︎︎君が僕のものっていう印だよ。初めてだけど、上手くいってよかった。白い肌に映えて綺麗だね。早くもっとつけたい。君の身体中、くまなく……」 腰を撫でる手が妖しく動き、徐々に登ってくる。慣れない状況に、私の頭は混乱していた。 逃げるべき? それともこのまま? 危うく胸元に到達しようとした時、ネフィの咳払いが止めてくれた。「殿下、そこまでです。ご自重ください」 慇懃無礼にそう言うネフィに、殿下は口を尖らせ抗議する。「ちぇ、もうちょっとだったのに。ネフィってば意地悪だな」 でもその声に棘はなく、気安い雰囲気だった。本気で咎めようという気は無いのだろう。ネフィも分かっているようで、同じく口を尖らせた。「あら、いざとなったら止めるように、と仰ったのは殿下ではございませんか。私はご命令に従ったまでですわ」 つんと澄まして、王族相手にも物怖じしない物言いでも、殿下は笑って